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6月も後半に入りましたが、雨らしい雨が中々降らない毎日です。ですが、今日は朝から土砂降り、娘を学校に送った帰りには止みましたが、この雨で咲いていた紫陽花も綺麗に輝いていました。紫陽花はやはり雨が似合います。
ところで、私は小さいころから聖書の話を聞く環境にありました。そんな幼少の時代、雨が降るとよく母親が「人間が悪いことばかりしているから、神様が涙を流しているんだよ」と教えてくれました。
聖書には人間が罪人であり、そのことを神様はとても悲しんでいると教えられていたので、私も「ひょっとしたら僕が昨日悪いことをしたからかなぁ」と思ったものでした。

そんな「涙」ですが、聖書には英語で「Jesus wept」という短い聖句があります。日本語訳では「イエスは涙を流された」となります。

イエス様が涙を流したのは、1人の青年が死んだ時でした。その時は当然家族も、そして親戚や近所の者たちも悲しんでおりました。イエス様はそのような人々の姿と、死んだその青年のために涙を流されたわけですが、死の恐ろしさ、悲しさ、死に対する人の無力さを私たち以上に知り、人々と、死んだ青年を憐れに思われて涙を流されたのです。

ただ、もしイエス様が私たち以上に感受性が強く、深い同情心を持った1人の人間であったなら、実際には私たちと何も変わりません、イエス様が私たちと違うのは、この悲しい死に対し、その解決を与えることの出来る方だということです。死の恐ろしさを知っているからこそ、その解決の必要を知っておられ、そればかりでなく、死から人々を解放することの出来る方なのです。それを証明するため、イエス様はこの時この青年を蘇らせました。
このことは私たちがこの方の憐れみによって、罪から来る死から解放されることができるといことを証明するものでした。

大人になった今、私は雨を通して、このイエス様の深い愛とその力を覚え、喜びを感じることができます。イエス様こそ、真の救い主なのです。