今日は子どもの入学式がありました。式が終わり、教室へ行って「学級開き」が行われましたが、そこで、先生の自己紹介、生徒の自己紹介などが行われ、先生の生徒に対してのこれから学校生活を送る上でのメッセージが語られました。
話の前後は忘れてしまったのですが、メッセージの中で先生は「種の起源」で有名なダーウィンの言葉である「るのではない変化するものがるのだ」という言葉を引用し、中学生活で様々な経験を通して変化し、成長していって欲しいと語っていました。
言葉だけ聞いたらよい言葉ですが、これは元々は「進化論」のことを説明する言葉です。

進化論は日本人にとっては「常識」あるいは「真実」であるかのごとく受け入れられておりますが、世界的にみたらこれは単なる「学説」であって、信じられる方が珍しくむしろ「少数派」です。日本はこの点でとても特殊なのです。

私たちクリスチャンも進化論はあくまで「学説」で、むしろ「間違い」であると確信しております。その根拠は、聖書の創世記の1章1節に「始めに神が天と地を創造された」、また2章7節に「神は人にいのちの息(たましい、あるいはこころ)を吹きこまれた」と記されているからです。
進化論は偶然によって人間が生じたと説明しますが、聖書はこのように神が意思をもって造られたと説明しています。この違いはとてつもなく大きく、進化論は倒れた木が自然に家になったと言っているようなものなのであり、聖書は神が意思と目的をもって造られたと語るのです。例えば家は誰かが設計し、そしてその意思に従って造られるものであることは明白でしょう、それから考えても人間は偶然にできたものではなく、意思によって造られたと考えるのが理性的であり素直に理解できることです。

更に言うならば、進化論に説得力がないことは「こころ」はどうやって生じたのか?ということに何も答えていないところにあります。
人間のこころはとても素晴らしいものです。人を愛したり、親切にしたり、悲しんだり、なにより、希望をもったり夢を持ったりします。
これらは動物にあるでしょうか?動物に母性本能があると言われますがそれは「種族維持本能」からくるものであり、「愛情」ではありません。この「こころ」が「進化」によって生じるのでしょうか?猿がある時を堺に人を愛したり、人のこころを察して行動するなんてことを想像できるでしょうか?事実このことの説明を私は今まで聞いたことがありません、できないのです。「こころ」に限らず、肉体に関しても進化の過程上の動物の姿の化石を見つけることができていないのが現実で、このことで進化論は学説として致命的な欠陥をもっている状態なのです、これをミッシングリンクといいます。

外国では「進化論」と「聖書の創造」を同時に教えます。その点で日本は大変公平性に欠けていますし、このことで多くの人びとが進化論を信じることによって結果として日本人は自らの尊厳を非常に虚しい物にしてしまっているのです。そして間違ったことを公然と小さな子どもに植え付けることで、自らが持つ「こころ」と「いのち」の素晴らしさを本当の意味で教えていないことになるのです。

聖書はこの人間の存在について、その本当の価値について教えます。私たちにとっての本当のこころの教科書は聖書であり、聖書の言葉を語る場所こそが本当の意味での学校なのです。
是非聖書をお読みになり、ご自身の本当の姿と神様の前における価値をお知りになって頂きたいと思います。