「神は仰せられた。『光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のため のしるしとなれ。また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。』すると、そのようになっ た。神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。」(創世記1章14節〜16節)

 

 聖書の創世記には神様が7日間で宇宙と星々、地球とその中にある大自然と生き物、そして人間をお造りになったと記されております。このみことばはその中の一部ですが、これだけを読んだら、誰しもが飛躍していると思うでしょう。確かに「ことば」を発しただけで物質が生じるなんてことをそのまま受け入れるということはなかなか難しいことです。ですから人間はなんとかして理屈で天地万物の成り立ちを解明しようと試みています。

 その中で最も有名なのはやはりビッグバン説ではないでしょうか。多くの物理学者が提唱し、宇宙の起源を証明するとされる学説です。宇宙がある時高温高密度の状態から爆発的膨張を起こし、そのことによって地球が生まれたというものです。

 このビッグバンを証明するにはブラックホールの存在が鍵となるそうで、物理学者はこれを様々な方法で、さまざまな角度から観測しようと試み、同時にブラックホールがどのような物理法則で発生しているかについて解明しようと試みられています。

 これらの試みのために重要となる理論に、有名なアインシュタインの一般相対性理論がありますが、しかしこの理論だけでビッグバンを証明することはできないとされています。

 一般相対性理論はマクロ的な現象(重力や光、目に見えるレベルでの現象)は証明できても、原子よりさらに小さな世界である素粒子の世界のことは証明できないとされており、ビッグバンはこの素粒子よりまたさらにミクロな世界のこととされているのです。しかもマクロな世界とミクロの世界ではその物理現象が理論的にまったく結びつかないのだそうです。しかしこの二つの理論を結び付けないと、ビッグバンによる宇宙の成り立ちの証明をすることはできないので、現在多くの物理学者はこれを結びつける「神の方程式」を解明し証明しようとしています。

 ところが、この「神の方程式」を解明してビッグバンを証明したとしても、そこからさらに大きな疑問が生じます。それは単純なことで、その現象はどうして発生したのか、ということです。これについても多くの議論がされており、ビッグバンの時空特異点以前の状態は、そこは素粒子ではなく「ひも」であり、しかもそれは私たちの認識する4次元(時間+3方向)ではなく、それより多い高次元での(11次元とも言われていいる)現象だというのです。

 さらにこの宇宙一つではなく多く存在し、しかも球体ではなく多くの宇宙がカーテンのように並んでおり、その宇宙同士が揺らぎで接触した際にこのビッグバンが生じるというのです。

 ここまでお読みになってどのように思われるでしょうか?比較することではないのですが、神様が全てを創造したとする聖書のことばよりも、このような科学や物理学の方が理論的・理性的と言えるでしょうか?これらの理論は単にいつまでたっても結論の見えない空想の世界と言えないでしょうか?

 物理学の世界では、宇宙の起源については私たち人間の持つ「脳のメカニズム」では解明できないことを認めざるを得ないという考えを持つ方々もいるようです。まさしくその通りであり、神がすべてのものを造られたということを否定し、科学によってそれは証明できるとすることは、それは探究心ではなく、己の無知を受け入れない人間の奢りであると言えるのです。

 神様に関することは単純です、神様は私たちよりも遥かに力があります、そして不可能なことがありません。だからこそ「神」なのです。その神様がなさることを私たちはすべて理解することは不可能なのです。

 聖書はその「隔たり」を埋めるのが「信仰」であると教えます。

 聖書が単純に「初めに神が天と地を創造した」とだけ説明するのは、この結論を信じるか信じないかが全てであるからです。私たち人間がなんのために生まれ、そしてどこに行くのかということは多くの人々が考えてきましたし、ビッグバンに見るような物理学もこのことをが原点です。

 その問いに対する答えは、私たちはこの神様の天地創造を信仰によって受け入れなければ決して見出すことはできないのです。