インターネット上にある、色々な質問とそれに対する回答を集めたコミュニティーサイトがあります。その中で物理学についてこんなことが記されていました。

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「物理学は、ひたすら『この世の中がどうなっているのか?』を追及する学問であって、『なぜ、この世の中がそうなっているのか?』という疑問は考えてはいけないことになっています。
したがって、この宇宙ができる前にどうなっていたのか?、つまり、なぜこの宇宙ができたのか?という疑問には、物理学は一切答えてくれません。
もちろん、人が「なぜ?」という疑問を持つのは当然のことでして、そもそも、本来は、多くの人にとって、『この世がどうなっているか?』よりも『なぜそうなっているのか?』のほうが、身近な疑問ではないかとも思います。(例えば、幼児の「なぜなぜ期」なんかを考えても)

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別のことで例えてみます。A地点かからB地点に物が動くという単純な事象あったとします。この事象を物理学的に考えようとした場合、それは「A地点からB地点に移動するために生じたエネルギーはどれくらいか」、「どのような力学て移動したか」ということであって、「なぜそれが移動したのか、その目的は何か」ということではない。しかし、この事象について多くの人が最初に考えることは、だいたいは後者のことではないだろうか、ということを言おうとしているのだと思います。
私も最近、ブラックホールに関する論文で有名な物理学者、ホーキング博士や、相対性理論を発表したアインシュタインの物理学研究に関する書物を数冊読んだのですが、彼らを含めた物理学者たちの研究に対する姿勢を見ると、確かに彼らの求めていることは「法則の解明(どうして)」であって、「原因と目的(なぜ)」ではないように思えました。
私たちが存在する理由、原因と目的を物理学をとおして知ろうとすることは、人間が持つごく自然な「探究心」ともいえますが、このコミュニティーサイトの回答を見ると、物理学にそれを求めるのは、一つの判断材料にはなり得るけれど、それそのものにその答えを見出そうとすることは根本的に間違っているということになります。

では、この「なぜ?」の回答を私たちは何に求めるべきでしょうか、その答えははまさしく聖書にあります。
まず聖書は、人間がなぜ存在したかについて、はじめに神が人間を創造したと語ります。そしてその目的は、神との和解をとおして愛の関係を築くことで、神の偉大な栄光を表すためであると教えます。
つまり、私たちは神から出て、神の中に存在するのであり、この神との関係性を知って初めて私たちの存在と、生きる目的を知ることができるのです。

「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒の働き17章28節)

「わたし(神)の名で呼ばれるすべての者(人間)は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43章7節)
「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」(Ⅰコリント8章6節)

このように聖書全体をとおして、私たちは私たちの存在とその目的を知ることができます。是非集会においでくださり、このことについてのお話をお聞きになってはいかがでしょうか。