「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル人への手紙11章1節)

一般的に「科学」とは、証明された事実であって、これこそが絶対的なものと疑問なく考える方は多いのではないでしょうか。

ところが、私たちが一般人がそのように思っていることに対して、実際に科学に真面目に取り組んでいるある人は、「科学的立場に立つには、定説を疑うことや、曖昧さを許容することが必要不可欠だ」、また「科学は○○は正しい」とは断定してくれません、と語ります。

なぜかというと、科学には曖昧にしかわからないことや、正しいとも正しくないとも確認できないことがあまりにおおく、また、確認できたかと思えば、それに矛盾する別の発見があり、定説が書き換えられるということも珍しくないからだそうです。そして、「科学的に正しい」「科学的に証明されている」というフレーズを使うのは、科学のことをよくわかっていない人か詐欺師かのどちらかでしょう、とまで言っていました。

この一般人と科学の専門家の考えのギャップは、ごく日常的に体験することがあるのではないでしょうか。たとえば病気にかかかった時治療を受けて薬を処方されたとします。病気の人は「この薬は科学的にその効能を証明されたのでこれを飲めば治る」と思いますが、処方した側にしてみると、「それはあくまで臨床実験で高い確率で効能が認められ、一定の基準に達したから使っているのであって、必ず治るとは限らない」と言われた時に感じるものととてもよく似ています。

そして、このような現実に対し、私たちは、効くか効かないかわからないけど、信じて(託して)その薬を飲むという結論に達するのではないでしょうか、そして人は時にそれはある意味で信仰と同じだとも言い、この考えから、聖書を信じることも科学を信じることもそれはどちらでもよく、あくまで個々人が安心を得るための選択の問題であると考えます。

しかし、聖書で言っている信仰とは、曖昧なことを真実として受け入れることでも、信じる心が大切だ、というものでもないものです。聖書が信じよと言っていることは、覆されることのない確実なこと、つまり「真理」を受け入れよということなのです。

聖書の語る真理とは、「唯一の神がおられること」「神がすべてを造られたこと」「キリストが私たちを救ってくださる」というです。ですから、確実に存在される神様がいて、その神様は私たちを人間を愛し、キリストを使わして罪のゆえに受ける死と死後のさばきから救う方法を備えてくださる、とううことを私たちが信じれば、それは確率でも気休めでもなく、必ずそのとおりになります。そしてこれは決して覆されることもありません。

この聖書が語る信仰による救いについてのお話を聞いてみませんか?