今年に入ってから発生している新型コロナウイルス感染拡大は、現在も収束することなく私たちを脅かしています。いったいいつになったら収束するのか、先の見えない不透明な状況に大変戸惑いを感じます。
 ただ、このウイルスがこの世からなくなるということは恐らく考えられないと思いますので、もはや誰しもが感染する可能性があるものととらえて、一定の収束を目指しつつも、今後社会全体がこのウイルスとどう付き合っていくかを考え、行動することが重要になってくるだろうと、ほとんどの方が感じておられるのではないでしょうか。
 ところが、この「気を付けていても、いつかは自分も感染する可能性が十分にある」という想像力を持てない人々がごく一部にいるようで、これらの人々は、感染者を強く非難して自宅に石を投げたり、張り紙をしたりするだけでなく、感染者の職場に電話までして誹謗中傷したりするそうです。このような話を聞くと、本当に恐ろしいのは新型コロナウイルスではなく、実は人間の方なのではないかとさえ思わされます。
 よく、「人は困難な局面に立たされるとその本性が表れる」と言われますが、今回のコロナ渦という困難をとおし、日本の人々は罰則がなくとも自発的に法を遵守し、行動することができるという、とても意識の高い側面を見せたことは事実であるものの、その反面、前述のように感染者に対してとても冷酷で厳しい、そして醜い姿をもさらけ出したともいえます。
 ただ、このことは決して他人事ではなく、私たちもいざとなったら、感染者を誹謗中傷した人のような酷い姿をさらけ出す可能性があることを否定することができないのではないでしょうか。

 ところで聖書には、私たちが体験することもできず、想像を絶するような大きな苦しみに会われた方について記されています。その方はその苦しみ最中、次のような言葉を発せられました。
 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(聖書)
 この言葉は、聖書が最も重要な方として紹介している救い主イエス・キリストが、十字架の苦しみを受け、そして壮絶な死を前にした時に発したものです。
 「彼ら」とは私たち人間を指し、「何をしているのかが分かっていない」とは、私たち人間が、私たちを造って生かしてくださっている神様の前に、自分の生まれながらの罪を自覚せず、死とその後の滅びに向かって生きている状態のことを言っています。
 そしてこのときの十字架の苦しみは、私たちがその罪に満ちた歩みを神様から赦していただくことができるために、イエス様がご自身のいのちを差し出し、身代わりとなって受けてくださったものなのです。
 このように私たちに対する愛を示してくださったイエス様は、現在、皆さんに対して聖書をとおして次のように語っています。
 「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」(聖書)
 これらにことについてさらに詳しくお伝えするため、当集会では伝道集会を行います。ぜひお越しくださって、イエス様と私たちの救いについて記されている、この聖書のことばに耳を傾けてみませんか?