小さい頃、私の家で猫を一匹飼っていました。もともと野良猫で、トラのメスでした。名前は仮にメイとしておきますが、メイはとても可愛く、1人で家に居るときなどは良い遊び相手でした。

メイは家猫ではなく、自由に外を飛び回っていたので、しばらく帰ってこないときなどもあり、その度に心配になったりしたものです。

そんなメイが、時々お腹を大きくしていることがありました。外に出たと時にできたものだったと思うのですが、その度に家の縁の下で出産していました。

当然ながら家では育てることができませんので、悲しいことですが、産まれる度に父親が縁の下に潜って連れ出して処分していました。だいたいはメイがいないときにこっそりつれだすのですが、時には威嚇するメイを前にして強硬手段に出ることもあったのを覚えています。

子供の私は、その様子を見ていていたたまれない気持ちになりました。子猫はもちろんメイもかわいそうで、なんとか飼えないものか、せめて引き取り手はないかと、両親に訴えることもありました。

何より一番悲しいのはメイで、子猫がいなくなるとほぼ1日中鳴いて子猫を探していました。その鳴き声を聞くのは本当に切ないものでしたし、たとえ動物であったとしても、母性本能はしっかりあるのだと子供ながらに思い知らされ、そのことをとおして親の愛もいくらかわかったような気がしました。

親にとって子供はかけがえのないもので、子供のためならいのちを惜しまないというのが親心ではないでしょうか。子供がいなくなったなら、身を削られた思いになるということも良く聞きますし、私も人の親として同じ気持ちです。この世で最も深い絆で結ばれているのが親子だと言っても過言ではありません。

ところで、聖書は親子関係をとおして、神様と人間の関係を教えており、次のような言葉があります。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」(イザヤ書49章15節)

これは神様が人間に対して語った言葉で、これでわかるように、神様にとって人間は乳飲み子のようにかけがえのない存在です、それは人間は神様によって造られたからであり、そのために人間は神様のその愛によって生かされているのです。この関係は、根源的な意味では人間の親子関係以上の絆であるとも言えます。

ところが、人間はこの神様との幸いな関係を認めず、引いては神様の存在そのものを否定しています。それはあたかも「私には産みの親はいない」と言っているのと同じで、このようにして私たちの親である神様を捨てて、その御許から遠く離れさっている状態なのです。

しかし、神様はそのような愚かな人間を、ちょうど私の父がメイから取り上げた子猫を1日中探したように、ずっと探し続けておられるのです。そのように、私たち一人一人をかけがえのないものとして扱って下さっており、何よりも、再びその絆を回復することを願って待っておられのです。

では、どのようにして私たち人間は神様との関係を回復することができるのでしょうか。それは、神様との関係を壊してしまった自らのその罪を悔い改め、神様が備えて下さった、イエス・キリストの十字架と復活を信じることによるのです。

ぜひ集会においで下さり、この救いのお話しを聞いて下さいますようご案内いたします。